食の安全を考える:DHMOの恐怖、カビ毒、そして健康志向の罠

 

はじめに:「食の安全」が気になる時代

毎日のように食品に関するニュースが流れる。添加物、農薬、カビ毒、遺伝子組換え……。スーパーの棚には「無添加」「オーガニック」「不使用」の文字が躍る。私たちは本当に、食の安全について正しく理解しているだろうか。

2024年4月、日本の食品安全行政に大きな変化があった。厚生労働省が所管していた食品衛生基準の策定等が消費者庁に移管され、食品安全行政の司令塔機能が強化された。制度は整備されつつある。しかし、制度が整えば私たちの不安は消えるのだろうか。

リスク管理において最も重要なのは、リスクを正しく認識することだ。食の安全でも、この原則は変わらない。

今回は、3つのキーワードを通じて「食の安全」を考えてみたい。


1. DHMOの恐怖:リスクコミュニケーションの罠

危険な化学物質DHMO

まず、ある化学物質について考えてみよう。DHMO(ジヒドロゲンモノオキサイド、Dihydrogen Monoxide)という物質だ。この物質には、以下のような特性がある:

  • 無色、無味、無臭であり、気づかないうちに摂取してしまう
  • 産業の巨大化や軍事技術の発展とともに使用量が飛躍的に増加
  • ナトリウム、カリウム、カルシウムなどの金属を侵食し、水素ガスを発生させる
  • 毎年無数の人を死に至らしめている(多くは液体のまま吸引したことによる呼吸不全が原因)
  • 固体となったDHMOに接触すると、身体組織に激しい損傷を引き起こす
  • 不妊男性の精液、死亡した胎児の羊水、がん細胞から多量に検出される
  • 犯罪者の血液や尿に多量に含まれ、暴力的犯罪のほぼ100%がこの物質を摂取した後24時間以内に発生

これを読んで、「こんな危険な物質を野放しにしていいのか!」と思われただろうか。

種明かし:DHMOの正体

実は、DHMOの正体は「水(H₂O)」である。

  • Dihydrogen(水素2つ)+ Monoxide(酸素1つ)= H₂O

上記の「恐怖の特性」は、すべて事実だ。しかし、それは単に「水」の性質を、意図的に恐ろしく表現しただけなのである。

  • 「液体のまま吸引すると呼吸不全」→ 溺死のこと
  • 「固体になると身体組織に損傷」→ 凍傷のこと
  • 「犯罪者の体内に存在」→ 人間の体の70%は水分

このジョークは、1983年に米国の新聞がエイプリルフール記事として掲載したのが起源とされる。1997年には、ある中学生がこの「恐怖の化学物質」について書いた文章を50人の大人に見せたところ、43人が「規制すべきだ」と答えたという。

DHMOジョークが教えること

このジョークが示すのは、以下の重要な真実だ:

  1. 表現方法によって、安全なものも危険に見える
  2. 事実を述べていても、文脈を操作すれば印象を歪められる
  3. 専門用語や化学的な名称は、不安を煽る道具になりうる
  4. リスクコミュニケーションは極めて難しい

食品安全の分野でも、同じことが起きている。「○○という化学物質が検出された」というニュースは不安を煽るが、その濃度が安全基準の何分の一なのかという情報は伝わらない。


2. リスクと安全:正しい理解のための基礎知識

リスクの定義

毒性学の分野では、リスクを次のように定義する:

リスク = 有害性 × 曝露量

重要なのは、「ゼロリスク」は存在しないということだ。

たとえ強い毒性を持つ物質でも、曝露量(摂取量)が極めて少なければリスクは低い。逆に、毒性が弱い物質でも、大量に摂取すればリスクは高まる。

水でさえ、一度に数リットル飲めば「水中毒」を起こす。塩も、砂糖も、過剰摂取すれば健康を害する。

農薬の安全性評価システム

「農薬」と聞くと不安を感じる人は多い。しかし、日本における農薬の安全性評価は、医薬品以上に厳格である。

新規農薬の登録には、以下のような試験が必要だ:

使用時の安全性評価(農業従事者向け)

  • 急性毒性(経口、経皮、吸入)
  • 眼刺激性、皮膚感作性
  • 亜急性毒性
  • 催奇形性、変異原性

残留農薬の安全性評価(消費者向け)

  • 急性毒性
  • 亜急性毒性
  • 長期毒性(慢性毒性、発がん性)
  • 繁殖毒性
  • 生体内運命

これらの試験は、ラット、マウス、イヌ、ウサギなど複数の動物種を用いて実施される。

ADI(1日許容摂取量)の算出

農薬の安全性基準として、ADI(Acceptable Daily Intake:1日許容摂取量)が設定される。

ADIは次のように算出される:

ADI = 最も低い無毒性量(NOAEL) ÷ 不確実係数(通常100)

不確実係数100の内訳:

  • 種差(10):動物とヒトの感受性の違い
  • 個体差(10):ヒト個人間の感受性の違い

つまり、実験動物で毒性が現れなかった量の、さらに100分の1以下が許容摂取量として設定される。これは非常に保守的(安全側に振った)基準だ。

厚生労働省の統計によれば、平成14〜18年度の農薬事故の82.5〜94.5%は自殺等の目的での意図的な大量摂取であり、通常の食品摂取による中毒事例は報告されていない。


3. 科学的リスク:マイコトキシン(カビ毒)の実態

マイコトキシンとは

マイコトキシン(Mycotoxin)とは、カビが産生する毒素の総称である。主に以下の属のカビが産生する:

  • アスペルギルス属(Aspergillus)
  • フサリウム属(Fusarium)
  • ペニシリウム属(Penicillium)

代表的なマイコトキシンにアフラトキシンがある。これは肝臓がんのリスクを高めることが知られており、国際がん研究機関(IARC)により「グループ1(ヒトに対する発がん性がある)」に分類されている。

日本の規制基準

日本では、食品衛生法に基づき以下の規制が設けられている:

  • 総アフラトキシン(B1、B2、G1、G2の総和):10 μg/kg(2011年から全食品対象)
  • アフラトキシンM1(乳中):0.5 μg/kg(2016年から)

この基準値を超える食品は、第6条第2号違反として流通が禁止される。

実際のリスク管理

マイコトキシンのリスク管理は、以下の段階で実施される:

  1. 生産段階:適切な栽培管理、カビの発生防止
  2. 貯蔵段階:温度・湿度管理、通風確保
  3. 流通段階:検査・モニタリング
  4. 消費段階:適切な保存方法の啓発

2022年には、岩手県産小麦「ナンブコムギ」から基準値を超えるカビ毒が検出され、回収措置がとられた。このように、問題が発見された場合には速やかに対応する体制が整っている。

リスクをどう捉えるべきか

マイコトキシンは確かに有害だ。しかし、基準値の設定、定期的なモニタリング、問題発生時の迅速な対応により、リスクは管理されている。

カビの生えた食品を食べないという常識的な行動と、行政による管理体制の両輪で、私たちの安全は守られている。


4. 心理的リスク:オルトレキシアという摂食障害

オルトレキシアとは

ここまで、科学的なリスクについて述べてきた。しかし、食の安全には心理的なリスクも存在する。

オルトレキシア(Orthorexia)は、1997年に米国の医師スティーブン・ブラットマンが提唱した概念で、「健康的な食事への過度なこだわり」を特徴とする摂食障害の一種である。

正式な医学的診断名ではなく、症候群的な扱いだが、近年注目されている。

拒食症との違い

一般的な拒食症(神経性無食欲症)は、体型や体重へのこだわりが中心だ。「痩せたい」という願望が病的に強まる。

一方、オルトレキシアは:

  • 体重ではなく、「食事の質」へのこだわり
  • 「健康的な食事」以外を拒絶
  • 本人が考える「健康的な食事」の基準は、必ずしも医学的に正しくない

例えば:

  • 「小麦を使っているものは一切ダメ」
  • 「添加物が入っているものは絶対ダメ」
  • 「防腐剤が入っているものは食べられない」
  • 「動物性食品はすべて拒否」
  • 「増粘剤が入っているものはダメ」

あるいは逆に、「白米しか食べられない」というケースもある。

強迫性障害的な側面

パークサイド日比谷クリニックの立川秀樹医師は、オルトレキシアを「強迫性障害の要素が強い病態」と分析している。

その特徴:

  1. 最初は「より健康になりたい」というポジティブな動機
  2. しだいに「絶対的な健康」への執着に変わる
  3. 「All or Nothing思考」が強まる
  4. それ以外は「悪」という強迫観念に支配される
  5. 「わかっちゃいるけど、やめられない」状態

結果として:

  • 友人と食事に行けない
  • 会社の会食に参加できない
  • 社会的に孤立する
  • 栄養バランスが崩れる
  • 低体重になる

最初は「自分にとって得なこと」だったはずが、「自分にとって損なこと」に変わってしまう。

オルトレキシアのセルフチェック

以下の10項目に当てはまるものが多い場合、注意が必要だ:

  1. 1日のうち3時間以上、健康的な食事について考えてしまう
  2. 翌日の献立(完璧な)を考えることが頭から離れない
  3. 食事が健康的になるにつれ、生活の質が低下している
  4. 自分自身、決め事に厳しすぎると感じる
  5. 健康的な食事をすることで、自尊心が上がる
  6. 健康的な食事をしていない人を見下してしまう
  7. 正しい食事を摂るために、大好きな食べ物を犠牲にしている
  8. 自分が決めた食事のせいで、家族や友人と距離が開いている
  9. 普通の食事をしたら、罪悪感や自己嫌悪を感じる
  10. 食べる行為を、自分で完全にはコントロールできていない

もし多くの項目に当てはまるなら、専門家(精神科医や心療内科医)への相談を検討してほしい。

健康志向の罠

健康的な食事を心がけること自体は、もちろん悪いことではない。しかし、それが過度になり、身体的健康や社会的健康を脅かすレベルになれば、本末転倒だ。

食事は栄養摂取の手段であると同時に、人生の楽しみであり、社会的なコミュニケーションの場でもある。そのバランスを失わないことが重要だ。


5. 「無添加」表示の落とし穴

マーケティング・バイアス

スーパーの棚には「無添加」「保存料不使用」「化学調味料不使用」といった表示が溢れている。

これらの表示を見ると、「添加物が入っていない方が安全だ」という印象を受けるだろう。しかし、この印象こそが「マーケティング・バイアス」である。

誤解を生む表示

「無添加」=「安全」ではない。

食品添加物は、以下のような厳格な安全性評価を経て使用が認められている:

  1. 動物実験による毒性試験
  2. ADI(1日許容摂取量)の設定
  3. 食品安全委員会による評価
  4. 使用基準の設定

むしろ、保存料を使わないことで微生物の増殖リスクが高まる場合もある。

2023年からのガイドライン

消費者庁は、「無添加」「不使用」表示が消費者の誤認を招くとして、2023年から表示ガイドラインを厳格化した。

特に問題視されているのは:

  • 「無添加」だけを強調し、何が無添加なのか不明確な表示
  • 健康や安全性と関連付けた表示(「体に優しい無添加」など)
  • 他の製品が劣っているかのような印象を与える表示

科学的根拠に基づく判断を

食品添加物に対する不安は、科学的根拠ではなく、イメージに基づいていることが多い。

食品安全の専門家組織NPO法人SFSSは、「無添加表示は消費者のリスク誤認を助長する」と指摘している。

私たちに必要なのは、「無添加だから安全」という単純な思考ではなく、科学的根拠に基づいた冷静な判断だ。


6. リスク管理の共通原理

インフラ研究と食の安全

私は研究所で、インフラの監視制御システムの研究に従事してきた。インフラのリスク管理と、食の安全のリスク管理には、共通する原理がある。

1. ゼロリスクは存在しない

どんなシステムでも、100%の安全は不可能だ。落雷、地震、機器の故障——さまざまなリスクが存在する。重要なのは、リスクを許容可能なレベルまで低減することだ。

食の安全も同じ。完全にリスクをゼロにすることはできない。しかし、科学的評価とモニタリングにより、リスクを管理可能なレベルに保つことはできる。

2. 確率論的な思考

システムの信頼性評価では、「N-1基準」や「N-2基準」といった考え方がある。「1つの機器が故障しても、システム全体は機能を維持する」という設計思想だ。

食品安全でも、ADIの設定に不確実係数100を用いるのは、同様の確率論的思考だ。「最悪のケースを想定し、それでも安全なレベルに設定する」。

3. 多層防護(Defense in Depth)

原子力発電所では、「多層防護」という考え方が基本だ。複数の防護層を設け、1つが破られても次の層が機能する。

食品安全も同様に:

  • 生産段階での管理
  • 流通段階での検査
  • 消費段階での情報提供

複数の層でリスクを管理している。

4. データに基づく意思決定

エンジニアリングの世界では、「データに基づかない判断はしない」が鉄則だ。

食品安全でも、感情や印象ではなく、科学的データに基づいた判断が求められる。


7. まとめ:バランスの取れた食の安全観を

過度な不安も、無関心もNG

食の安全について、私たちはどのような姿勢で臨むべきか。

過度な不安は:

  • オルトレキシアのような健康被害につながる
  • 社会生活を損なう
  • 食事の楽しみを奪う
  • 科学的根拠のない商品を高額で購入させられる

一方、無関心は:

  • 本当のリスクを見逃す
  • 不適切な保存や調理による食中毒のリスク
  • 健康的な食生活の放棄

どちらも望ましくない。

必要なのは「情報リテラシー」

重要なのは、情報を正しく読み解く力だ。

  • 「○○が検出された」→ それは基準値の何倍か?
  • 「無添加」→ それで本当に安全性が高まるのか?
  • 「天然由来」→ 天然だから安全とは限らない(フグ毒、毒キノコも天然)
  • 専門用語で脅かす情報→ DHMOジョークを思い出そう

科学的根拠を求め、複数の情報源を確認し、冷静に判断する。これがエンジニアリング思考だ。

食事は人生の楽しみ

最後に、最も重要なことを述べたい。

食事は、単なる栄養摂取ではない。

  • 家族や友人との団らん
  • 文化や伝統の継承
  • 新しい味や料理との出会い
  • 人生の喜びの一つ

科学的な安全性と、食事の楽しみ。この両立こそが、真の「食の安全」ではないだろうか。

DHMOの恐怖から解放され、カビ毒のリスクを正しく理解し、オルトレキシアの罠を避ける。そして、バランスの取れた食生活を楽しむ。

それが、私たちが目指すべき姿だ。



参考文献・リンク

  1. 青山博昭「食の安全はどのように守られているか」財団法人残留農薬研究所, 2010 http://www.mac.or.jp/mail/100801/04.shtml

  2. 立川秀樹「健康な食事しか食べられない人たち~オルトレキシア」パークサイド日比谷クリニック, 2020 https://www.parkside-hibiya.com/column/orthorexia.html

  3. 食品安全委員会「カビ毒(マイコトキシン)の基礎」2017 https://www.fsc.go.jp/

  4. 農林水産省「かびとかび毒についての基礎的な情報」 https://www.maff.go.jp/j/syouan/seisaku/risk_analysis/priority/kabidoku/kiso.html

  5. NPO法人食の安全と安心を科学する会(SFSS) https://nposfss.com/

  6. 消費者庁「食品の安全を守る仕組み」 https://www.caa.go.jp/policies/policy/consumer_safety/food_safety/

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